完璧な体と、満たされなかった心―ボディビル挑戦と、再燃した摂食障害―

私について

「理想の体になれば、すべてうまくいく」———

そんな思いが、どこかに残っていたのだと思います。

過食嘔吐の治療を終え、「やっとスタート地点に立てた」と感じていた頃。私はまた、新たな挑戦に気持ちを向けていました。

 残っていた「理想の体」への執着

地元の市営ジムで筋トレを始めて数ヶ月。マシンを使いながら、たんぱく質多めの食事を意識し、「少し筋肉もついてきたかな」と思えるようになってきた頃のことでした。

ある日、ジムでひときわ目を引く女性が現れました。おしゃれなタンクトップにレギンス姿。引き締まった身体が凛とした存在感を放っていました。

彼女は、私がいつも使っているマシンエリアではなく、屈強な男性たちが集まる”フリーウェイトエリア”へと迷いなく足を運び、重たいバーベルを担いで堂々とスクワットを始めました。

その姿に、心の奥から湧き上がるような憧れを感じました。

Tシャツにジャージ姿で、おそるおそるマシンを使っていた私とはまるで別世界。「私も、あんなふうになりたい」——

 

「やるならとことんやりたい」「教わるなら一流の人に」

そんな気持ちで、私はプロのトレーナーを探し始めました。ネットで見つけたのは、ボディビル元日本チャンピオンが運営する本格派のジム。そこで出会ったのが、現役でコンテストに出場している女性トレーナーでした。

彼女は厳しさの中にも美しさと優しさを持ち合わせていて、その指導はまさに“本物”。一緒にトレーニングを重ねるうちに、私の中で「コンテストに挑戦したい」という気持ちが芽生えてきました。

ちょうどその頃、通っていたクリニックでの摂食障害の治療は終盤を迎え、過食嘔吐の症状も何ヶ月も落ち着いていました。

負の感情にもきちんと向き合えるようになり、辛いことがあっても過食以外の方法で対処できる自分がいました。「どんな自分でもOK」という感覚が、ようやく少しずつ根づき始めていた頃です。

「今の私なら、この大きな挑戦を受け止められるかもしれない」

そう思い、主治医に相談。

医師は言いました。

「今のあなたが挑戦したいと思うのなら、やってみたらいいですよ。以前のあなたとは、考え方が違ってきているはずですから」

その言葉に背中を押され、私はボディビルのコンテストへ挑戦することを決意しました。

極限の減量 —体の限界を超える日々—

コンテストへの挑戦は、まず「増量期」から始まりました。

カロリーを多めに摂り、高負荷のトレーニングで筋肉をつけながら、計画的に体重を増やしていきます。気づけば、体は20代の頃、過食で太っていたときと同じくらい大きくなっていました。けれど今回は、その増量すら「目的のため」と受け入れていた自分がいました。

そして、コンテスト3ヶ月前。

いよいよ「減量期」がスタートします。

ただ食べないだけのダイエットではありません。

毎日の食事を、グラム単位で管理するような、極限のコントロール生活。

3か月間、米もパンも一切摂らず、1日の炭水化物はジャガイモ1個半のみ。たんぱく質は鶏むね肉か馬肉のみで、後半2ヶ月はプロテインさえもNG。午後6時以降は何も食べられないルールの中、仕事終わりに公園でこっそりタッパーのお弁当をつつく日々が続きました。

その状態で、週4回の高強度トレーニングを続けるうちに、少しずつ体が悲鳴を上げ始めます。

生理が止まり、心拍数は30〜40台まで低下。医学的には「徐脈」と呼ばれる状態です。

それは、飢餓状態の体が必死にエネルギーを節約し、生き残ろうとするサインでした。

「ごめんね、体。無理させて。でも、やり遂げたいんだ」

そんな気持ちを抱えながら、私はトレーニングを続けました。



特に太ももやお尻、子宮まわりの脂肪は最後まで落ちにくく、「女性の体は命を守るようにできているんだ」と、どこか神聖な感覚さえ抱いていました。何億年もの進化の果てに受け継がれた、命を守るための知恵。その叡知を、自分の体に感じていたのです。

体重は、思うように減ってくれませんでした。

1ヶ月ほど、完全に停滞。

どれだけ我慢しても結果が出ない焦りと苛立ちで、心は削られていきました。

朝の公園で、走りながら泣いてしまった日もあります。

友人の結婚祝いの席では、自分だけ食事を口にできず、申し訳なさと孤独感に押しつぶされそうになりました。

それでも、私は止まれませんでした。

「治療で育ててきた“自己肯定感”と、“理想の身体”を手に入れたら、きっと私は完璧になれる」

そう信じていたのです。

優勝と賞賛、愛されたような錯覚

そして迎えたコンテスト当日。

朝早く会場に到着すると、すでに大勢の選手たちが集まっていました。真っ黒に日焼けし、自信満々に待機している選手たち。その光景に圧倒され、「私なんかがこの場にいてもいいのかな……」と、不安が押し寄せてきます。

控室に通されると、みんなが思い思いに準備を始めていました。誰もが堂々としていて、自信に満ちて見える。私はというと、緊張と不安でいっぱい。けれど、名前が呼ばれ、ステージに上がった瞬間——スイッチが入りました。

バレエを習っていたおかげで、舞台の上は私にとって”見慣れた場所”。不安な気持ちは笑顔の奥にしまいこみ、私は堂々とポージングを決めました。

結果は、予選通過。客席からトレーナーの先生が撮影してくれていた動画を見て、ふと思いました。

「…あれ、私、意外とイケてるかも?」

決勝では、まるで舞台で女王様を演じるような気持ちでポージング。

“今を楽しもう”という開き直りが、不思議と自信に変わっていました。

とにかく、楽しくて気持ちよかった。

そして結果は——優勝

自分の名前が呼ばれ、金メダルが首にかけられた瞬間。

それは最高にうれしい瞬間でした。



観客席からの大きな拍手。ライバルたちからの「おめでとう」という声。ステージの上で、私は心から誇らしい気持ちになっていました。

この体に生まれてきたことに、初めて感謝できた瞬間でもありました。

大会後、トレーナーの先生がこう言ってくれました。

「審査員の先生方、みんな絶賛してたよ。あなたの骨格は素晴らしい。もっと上を目指せるはず。次は、もう一つ上の大会だね。」

正直、「もう減量はしたくない」という気持ちもありました。

けれど、それ以上に心を動かしたのは——審査員の言葉、トレーナーの期待、そして、この体に生んでくれた母の存在。

応えたい、報いたい、もっと認められたい——そんな気持ちが強くなっていきました。

ボディビルは、想像を絶するほどしんどい。

でも、その先に「完璧な体」と「称賛」があるのなら——

SNSの中でも、ステージの上でも輝けるのなら——

「ボディビルダーとして生きるのも悪くない」

そんな風に思い始めていたのです。

崩れたバランス —摂食障害の再燃—

減量中から、どこかでずっと不安を感じていました。

「減量が終わったら、私の食欲はどうなってしまうんだろう……」

その予感は、見事に的中しました。

コンテストが終わると、食欲はまるで抑えの効かない波のように、容赦なく私をのみ込んできたのです。

食べたい、食べたい、食べたい。

そして、太ったら――

称賛も、愛も、すべて消えてしまう気がした。

そんな妄想にも似た恐怖に心が支配され、私は再び嘔吐を始めてしまいました。

この頃の記憶は、ところどころ抜け落ちています。

覚えているのは、コンテストからわずか3週間ほどで、1日に2〜3回もの過食嘔吐を繰り返すようになっていたこと。口の中はただれ、顔には吹き出物ができ、ただただ絶望的な気持ちであったこと。

当時の症状は、私にとってこれまで経験した中でも特に過酷なものでした。

特に酷かった時期は1〜2ヶ月ほど続いたと思います。その後、過食嘔吐の頻度は少しずつ減っていきましたが、完全になくなることはありませんでした。



治療で学んだ知識や、支えになっていた言葉たち。それらは、過食の衝動の前ではまるで意味を持たなくなっていました。

「こんなとき、どう考えればいいんだっけ……?」

何度も思い出そうとしました。でも、ノートを開いても、言葉が頭に入ってこない。

「そんなことより、とにかく食べたいんだ」――それだけが支配していました。

当然、そんな状態で次の大会の準備などできるはずもなく、私はパーソナルトレーニングを辞める決断をしました。

トレーナーは優しく言ってくれました。

「減量明けは、誰しも少なからずそうなります。競技を続けられない人も多いんです。ご自身を責めずに、まずは治療を優先してくださいね」

でも、私にはこう聞こえてしまったのです。

「やっぱりあなたも無理だったのね」

悔しかった。情けなかった。

でも、それ以上に「もう限界だ」と心が叫んでいました。

私は、自分自身の限界を、静かに、でもはっきりと認めざるを得ませんでした。

ちょうどその頃、世の中はコロナ禍に入り、ジムも次々と閉鎖されていきました。

トレーニングができなくなることに、私は大きな焦りを感じていました。筋肉が落ちてしまう、体型が崩れてしまう――その不安でいっぱいだったのです。

けれどその奥に、小さな安堵も確かにありました。

もう走り続けなくてもいいのかもしれない。ハードなトレーニングも、完璧な食事管理も、どこかで「本当はもう休みたかった」と思っていた自分がいました。

それでも、「綺麗な身体でいられているから、大丈夫」――そんな条件付きの自信にすがっていた私は、まだ本当の意味で自分を受け入れることはできていませんでした。

立ち止まることは許せた。でも、体型を保てていることが、私の唯一の「価値」だと思っていたのです。

“感じる力”を信じて、体と共に生きていく 

なぜ、あそこまで”完璧な体”にこだわっていたのか。

今になって、ようやく気づけたことがあります。

大会で優勝したとき、母は「すごいね、頑張ったね」と言ってくれました。

でも、私が本当に欲しかったのは、その言葉じゃなかった。

心の奥で求めていたのは――

「そんなに頑張らなくていいよ」

「あなたが元気で笑ってくれていれば、それでいい」

「どんな姿かたちでも、あなたは私の大切な娘だよ」

そんな、無条件の愛を感じられる言葉だったのだと思います。

幼い頃、母によく言われていた言葉。

「絶対に太ったらダメよ」

「お願いだから、みっともない体にならないで」

その言葉は、母の愛情だったのかもしれないけれど、

私にとっては「太る=愛されない」「綺麗でなければ価値がない」と感じさせる十分な理由になりました。

だからこそ、「これだけ頑張ってるんだから、もう許してほしい」――そんな思いが、私を“完璧な体”へと駆り立てていたのだと思います。

今でも時々「きれいな体」ではない自分を嫌だと感じてしまう瞬間があります。

だけど、少しずつ。母に求めていた言葉を、自分自身にかけられるようになってきました。

“きれいな体”を手放す——それは簡単なことではなかったけれど、

執着から離れるために、あの挑戦は必要なプロセスだったと今は感じています。

恥ずかしながら、いまだに過去の「コンテスト優勝」を誰かに話したくなることもあります(笑)。

でも、本当に私のことを大切に思ってくれる人たちは、そんな”過去の栄光”で私を見ていません。

「痩せたね」「元気そうだね」と言われることはあっても、彼らは私の体ではなく、存在そのものを見てくれている。

そのことに、やっと気づけるようになりました。

これからは、感じる力を信じて、体と共に生きていきたい。
外側の声に振り回されるのではなく、自分の内側にある“体と心の声”を受け取りながら。
コントロールではなく、信頼をベースに。

そんな風に、私自身の人生を歩んでいきたいと思っています。

 

次回は、SAT療法を通して親との関係と向き合い、「ありのままの私」を少しずつ受け入れていった過程について、お話しさせてください。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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